私たちの国際交流(42)を掲載しました。

私の台湾交流

1972年3月卒業までの学生時代。最後の長期休みに何をしたらよいか考え無謀(当時は1ドル360円)にも、一度も行ったことのない海外に行こうと考え目的地を台湾にして安く行く経路を研究。

東京から鹿児島まで汽車(25時間)。鹿児島から沖縄(まだ日本へ返還前)まで船(24時間)。沖縄から台北へは、飛行機(1時間)で行くことにしました。

台湾は当時戒厳令下で、台北松山飛行場に、着陸する前には窓のブラインドを降ろし飛行場が見えないようにしなければなりませんでした。入国後泊る所も決め手なかったため安いホテルを探すのに苦労しました。台北駅近くにいた警察官にYMCAのホテルを紹介され宿泊。心細い一日目でした。翌日から汽車と飛行機で台湾を一周(花蓮から台北間は、当時鉄道はありませんでした)。当時、30才以上の人は、戦前日本の統治下で日本語での教育を受けていた関係で皆さん日本語が堪能、ほとんど苦労なく旅することができました。

私の初めての台湾旅行でした。

その後、商社で働くようになって、5年間東京の単身寮で生活しましたが、その時、台湾の商工会から私の会社に派遣され約半年間単身寮で一緒に暮らしたのが、現在、北名古屋市国際交流大使として、北名古屋市と台湾との交流の架け橋である台北市在住の起業家、陳世傑氏です。数年前、北名古屋市が台湾との交流を考えているとのことで陳氏に相談。台北市の大同区との交流が始まりました。

 

さあ、これからお互いに交流しようというときにコロナの流行になってしまい折角の関係が途切れてしまい残念ですが、コロナが治まって早く交流が再開されお互いの市民が交流できる機会が来るように願っております。

私も今年で75才になります。最後に50年前に行った所を同じルートで周り各所の方々と交流したいと思っております。

鹿田 板東 雅宣